【Japan Pride 注目のひとスペシャルインタビュー】Weill Cornell Medicine And New York Presbyterian Hospital / Cardiothoracic Surgeon 中好文

Weill Cornell Medicine And New York-Presbyterian Hospital
525 E. 68th St. New York, NY 10065
Tel (212)746-5873

大阪大学医学部卒業。同大学院医学系研究科で博士号を取得。1993年、コロンビア大学の研究フェローとして来米。同大学生理学教室でポスドク研究員、 96年から同大学医療センター・ニューヨークプレスビテリアン病院心臓胸部外科で海外臨床研修医。ニューヨーク・プレスビテリアン大学心臓移植プログラムディレクター。コロンビア大学機械的循環支援プログラムディレクターを経て、ワイルコーネル大学医学部教授。ニューヨークプレスビテリアン病院・心不全、心臓移植、および左室補助装置プログラム外科ディレクター。2004年9月、コロンビア大学のクレイグ・スミス教授とともにビル・クリントン元大統領の心臓バイパス手術を行ったことでも知られている。

リスクとベネフィットを考え、
最良の方法を提供するのが僕の流儀です。

世界的な心臓外科医で、心臓移植や左室補助装置(LVAD)を用いた
心不全治療の権威であるワイル・コーネル大学医学部教授の中 好文氏。
これまで、クリントン元大統領やコッチ元ニューヨーク市長などの要人を
筆頭に数え切れないほどの心臓手術を手掛けてきた。
医師を志した小学生時代からコロンビア大学でのポスドクフェローを経て、同医学部教授に。
コーネル大学が新しく始める心臓移植プロジェクトのリーダーとなった現在までの軌跡を聞いた。

ー 父の夢を継ぐ

幼い頃の僕はプラモデルを作るのが好きで、将来はエンジニアになりたかったんです。医者になりたかったのは父で、祖父が比較的早くに亡くなったため、家業である食堂を継がなければならず、その夢を諦めた。そんなこともあって父から、「医者になれ」と言われ続けていたんです。医者になることを意識しだしたのは小学校3、4年の頃かな。中学までは地元の学校に通っていたんですが、高校は大阪星光学院に行きました。阪大医学部に入学できたのは、運が良かったんでしょう。医者になるのなら胸部外科を目指そうと思ったのは、僕が星光学院に入学した時の事務局長で、大変お世話になった人が肺がんで亡くなったからです。

ー 川島康生先生との出会い

僕が阪大の第一外科に入局した1978年頃、阪大の外科は第一外科、第二外科、小児外科、脳外科、整形外科に分かれていて、第一外科の中には心臓、肺、消化器、乳腺、甲状腺、小児外科のトレーニングも含まれていました。のちにメンターとなる川島康生(かわしま・やすなる)先生は、第一外科の主任教授でした。
川島先生は日本の心臓外科の第一人者ですから、やっぱりオーラがありましたね。川島先生と交流があったのは、5、 6年生で臨床医学を学ぶようになり、川島先生の講義を受けるようになってからです。講義の中で先生が「どんなときもサイエンスで考えて患者に接しなさい」とおっしゃって、「そうなんか!」と。川島先生のこの言葉が、心臓外科を選び、なおかつ研究を目指すきっかけになったように思います。大学を卒業して臨床に進む段階になって、「だったらまずサイエンスをしよう」と。それで大学院に進学しました。

大体は 1 回手術を見たら復元できるという中氏。
「イメージのリテンション(保持)はいい方だと思います」と話す

ー 研究テーマに選んだのは、心肺の保存と心臓移植

大学院に入ったらすぐに研究ができるといったらそうじゃないんです。1年目は他の研修医と同じように病棟から手術室で朝から晩まで、2年目の半年ぐらいまでICUで働きました。それからやっと研究を始めました。
心肺の保存と心臓移植を研究テーマに選んだのは、大学院1年生で、研修医と同じような仕事をしていた時に、心臓移植か心肺移植が必要になるかもしれない患者さんの死に直面したからです。日本では当時、和田移植(*編集部注)の影響で30年以上心臓移植が行われておらず、やっと1999年2月に再開されたんですが、その第一号は阪大でした。心不全の外科治療では、阪大と国立循環器病センターが中心であることから、心臓移植について研究しようと決意したんです。

ー 33歳でコロンビア大学の研究フェローとして来米

大学院を卒業して、なんとか博士号も取って、その後1年ぐらい大学に残って研究をして、その後、臨床医になるために大阪警察病院で外科学と心臓血管外科の研修を2年ずつ受けました。阪大医学部には当時、これらの過程を終えた者はほぼ全員、また大学に戻って医局員になり、持ち回りで「病棟係」をしなければならないという不文律がありました。病棟係とは、病棟運営と研修医を指導する立場の医局員のことで、下病棟から始まって何年か経ったら上病棟担当になります。昼夜問わずの激務で、その間、他の病院でバイトもできない。たちまち生活に困窮します。病棟係になりたくないのなら、医局をやめる、または海外に留学するしかない。医局をやめると、阪大の関連病院への就職の道は断たれる。医局に所属している人間として、一時的に病棟係を避けるには海外留学しかなかったんですね(苦笑)。
コロンビア大学の生理学教室には、阪大の脈管内科の研究室からずっと研究者が来ていて縁もあったし、「日本人の研究者はいいよね」という話だったんでしょう。次のプロジェクトは内科的なものではなく動物実験をするものだったので、脈管内科の先生に問い合わせがあった際に、「内科にはおらんけど、外科にはおる。お前、行くか?」みたいな話になったんです。ニューヨークに来たのは1993年、33歳でした。

ー ラットの実験に明け暮れたポスドク時代

ポスドク時代の研究テーマは「臓器保存と血管内皮の機能」です。心臓移植は、ドナー(臓器提供者)から心臓を取り出して、ほとんどの場合空輸して移植センターで移植します。ドナーの身体から取り出す前に心臓を止めて、心臓を移植して血液を流すまでは「4時間以内が理想」とされています。4時間を超えると心臓の機能が落ちる可能性が高くなる。この間、心臓をどうやって保存するか、保存液はどんなものがいいか?それを解明する研究です。そのなかで、「心臓の鮮度を決める1つの重要な役割を担うのが、血管内皮の機能である」という仮説を立てた人が、コロンビア大学のプロジェクトリーダーで、このプロジェクトをやるのに外科的な実験ができる人はいないか?ということで僕に話が来たんですね。
移植手術のモデルはマウスよりちょっと大きいラットです。実験では心臓ではなく肺移植を行いました。コロンビア大学では、肺移植のモデル(どんなラットを使い、どんな手法で手術をし、機能を検証するか)がすでに確立されていて、僕はそのモデルに則って実験すればよかったので、非常に運が良かったと思います。週3日ラットで実験して、残りの日は実験から出てきた検体の生化学的な指標を図る実験をしていました。

ー 臨床フェローとしてアメリカに残る

僕は心臓移植だけをやりたくて心臓外科医になったんじゃない。普通の成人の心臓外科医になりたかったんです。そのうちの一部が、移植や人工心臓だったということです。アメリカに残りたかったのは、(大人の)心臓外科手術の症例数が日米で圧倒的に違ったから。僕が研修を始める1996年頃のコロンビア大学の症例数は年間700 ~ 800例で、研修が終わる98年頃は1000例を超えていました。日本でその当時、症例数がいちばん多かったのは国立循環器病センターか東京・府中の榊原記念病院で、 1000例をちょっと超えるぐらい。他の病院は200 ~ 300例ぐらいだったと思います。日本の場合、患者数が少ないのと、心臓外科を標榜する病院が多すぎる。平均すると1つの病院で80例。すごく少ないところで年間20 ~ 30例。そんなところで良い研修は困難ですね。大阪警察病院で研修を受けた時には年間80例でした。コロンビア大学の心臓外科のプログラムは研修医の教育には非常に良かった。僕たちにたくさん手術をさせてくれた。外科医が第一助手の側に立って、2人で手術するんですが、2年間のうちに、どんどん任せられるようになりました。

ー 背中を押してくれた、Dr.オズ

ポスドク時代のプロジェクトは、コロンビア大学の心臓内科、外科、生理学教室のコラボ研究だったんですが、そのリーダーだった若手の心臓外科医と友達になったのが、僕が臨床フェローになれた大きなきっかけだったと思います。友達とはあのDr. オズ(**編集部注)なんです。彼とは今も親友です。彼は途中からテレビの世界に行ったけど、もともとは非常に優れた心臓外科医です。メメット・オズに「アメリカで臨床のトレーニング受けたい」と相談したら、「お前の3年目が終わる時に外国人フェローの枠が空く。その枠に入りたいなら、アメリカの医師国家試験に合格して、ECFMG:Educational Commission for Foreign Medical 認定書と、ニューヨーク州のリミテッドパーミット(監督の下で臨床ができる資格)を取れ。そうしたら雇ってやる」と励まされて。だったら合格するぞ!ってね。「ネズミの移植手術をしているんだから、技術的な素養はあるだろう」ということだったんでしょう。研究に対する姿勢も認められたんだと思います。

タバコは一切吸わず、お酒は外食するときだけ。
人懐こい関西弁と柔和な顔、ときどきのぞく鋭い眼光が印象的

ー コロンビア大での左室補助人工心臓と心臓移植手術

コロンビア大学の心臓移植のプログラムは1977年に始まっています。90年から左室補助人工心臓の手術をやるようになり、心臓移植と左室補助人工心臓の手術では、コロンビア大学は世界的権威です。僕が研修を終えて外科医になった1998年頃は、心臓移植は年間100例ぐらい。心臓移植は緊急なので、3 ~ 4人の医者がオンコールを分け合ってやっていた。左室補助人工心臓の手術は8時間ぐらいかかる大変な手術で、メメットがディレクターだったんだけど、彼は他の一般の心臓手術もやっていてものすごく忙しかった。「とてもやってられない。お前やってくれよ」ということで僕が左室補助人工心臓の手術を引き受けるようになったんです。左室補助人工心臓の手術を受ける患者さんは心臓移植を待っている患者さんで、いずれは移植が必要になります。左室補助人工心臓が付いている患者さんはほぼ全員、僕が手術した患者さんだったので、「だったら移植も僕が全部やるよ」ということになった。その頃の僕の手術の内訳は、70%が一般の心臓外科手術(バイパスや弁膜症)、30%が左室補助人工心臓と心臓移植です。
バイパスや移植など、心臓の手術には手先の器用さが求められますが、僕は器用な方だと思います。大体は1回手術を見たら復元できますし、イメージのリテンションはいい方だと思います。生まれ持った才能なのか、あるいはプラモデル作りに夢中になった小さい頃の経験が生きているのかもしれないですね。

ー コーネル大で2022年から始まる心臓移植手術、その中心を担う

メメットから左室補助人工心臓手術のディレクターやれと言われ、その後に心移植ディレクターも兼任するようになり、コーネル大学からの要請もあって、左室補助人工心臓の手術をコーネル大学でやっていました。コーネル大学で2022年から心臓移植を始めるにあたり、全体のサージカルディレクターに任命され、現在はコーネル大学に所属しています。同時にコロンビア大学のオンコール医でもあるので、お呼びがかかったら、コロンビア大学でも手術をしています。

コロンビア大学のオンコール医として同大学でも執刀。
コロンビア大学では毎年80件以上の心臓移植を実施、米国最大規模を誇る

ー リスクとベネフィットを考え、最良の方法を提供する

医療の究極の目的は「Imrovement of Quantity and/or Quality of Life(自然予後または生活の質の改善)」です。この2つを目指す際にどんな手段を用いるか、その手段のリスクとベネフィットを考えた上で最良の方法を提供するのが僕の流儀。なんでもかんでも手術すればいいというわけではないんです。内科、外科のどっちかが「100%いい」なんてことは医療の世界ではあり得ない。適切な治療をしなかった場合の重症心不全の予後は、「50%が1年以内」とされるなかで、統計学的に見て5年後の生存率は外科的治療(手術)の方がいい。しかし初期のリスクは外科的治療の方が高い。5、10、 15年のロングスパンで見るとバイパス手術のような外科的治療の方がいいが、血管の中に管(ステント)を入れる内科的治療という手もある。患者さんとじっくり話して、患者さんが今後、どんな生活を送りたいのかを聞いて、患者さんにとって最良の治療法を決めます。

ー 優れた心臓外科医、信頼できる病院

心臓外科医の力量を調べるのはなかなか難しいですね。紹介の患者さんが多いというのは確かに1つの指標だと思います。一般の方はご存知ないかもしれませんが、アメリカの心臓外科医の中には、米国胸部外科認定医(American Board of Thoracic Surgery:ABTS)じゃない人はたくさんいるんですよ。胸部外科に限らず、それぞれの専門分野の学会の認定を受けるのには、アメリカの病院で研修医(レジデント)をやらないといけない。僕はそれをやっていないから、 ABTSの認定書を持っていません。コロンビア大学に昔、ベルギー人の小児心臓外科医がいましたが、彼は国家試験も受けておらず、ABTS認定でもなかった。それぐらい優秀だったということです。そうとう腕が立つ心臓外科医じゃない限り、 ABTSなしに雇ってもらえません。「逆は真なり」とは一概には言えないけれど、そういう観点で医者を選ぶことはありかもしれないですね。コロンビア大学にはあと2人、ABTS認定医でない日本人の心臓外科医がいます。
コロンビア大学病院とコーネル大学病院が合併してできたニューヨーク・プレスビテリアン病院やNYUなど、ニューヨーク市内の私立病院はどこへ行ってもかなりのレベルだと思います。どこの病院もUSニュースが毎年発表する「Best Hospitals」のランキングに非常に気を遣っていて、評価の改善に努めていますから。でも、外科が良くても内科や麻酔科、感染症科、循環器科やICUに優れた医師がいなかったらだめなんですよ。命を預かる現場で最後にものを言うのは、総合力です。

*和田移植
札幌医科大学の和田寿郎医師が1968年に行った日本国内初の心臓移植。患者は術後83日間生存したが、患者の死後、脳死判定や移植適応に関する疑義が指摘され、和田医師は殺人罪で刑事告発された(不起訴)。以降、日本での心臓移植は約30年間にわたり閉ざされた。

**Dr. オズ
心臓外科医、コロンビア大学教授、作家。2009年から続く健康情報番組「ドクター・オズ・ショー」のホスト。同番組は世界140カ国で放送されている。

ニューヨーク便利帳®︎vol.30本誌掲載

Interviewer:Asami Kato
Photographer:Masaki Hori
2021年 8月16日取材