【Japan Pride 注目の学校スペシャルインタビュー】Japanese Children’s Society, Inc. President & Principal 岡本徹

Japanese Childrenʼs Society, Inc.
8 W. Bayview Ave Englewood Cliffs, NJ 07632
Tel (201) 947-4832

富山県高岡市出身。二男一女の5人家族でニュージャージー州在住。東京藝術大学美術学部卒業後、小学校勤務を経て1973年にメキシコヘ渡る。メキシコ国立大学大学院卒業後、メキシコ各地やインディアナ州の大学で墨絵教室を開催。80年、マンハッタンにてJapanese Childrenʼs Societyの設立に参加。85年、「よい子の学園」2代目学園長に就任。90年「ニューヨーク育英学園」に改称し、ニューヨーク州やニュージャージー州で4つのキャンパスを運営する。

全日制・幼小一貫教育を行う
東海岸唯一の教育機関

創立40周年を迎えたニューヨーク育英学園。
元美術教師の2代目園長が語る、日本人のアイデンティティーを体得し
アメリカ社会を理解するリーダーの育成とは。

ー 学園長になった経緯を教えてください。

もともと私は芸術大学美術学部卒でアーティストを目指していたんです。東京で小学校の美術教師をしていたときに世話をしていたメキシコ人の友人が、メキシコ国立大学の美術学部の教授になったのです。今度大学院をオープンするから来ないかと誘われ、「おもしろそうだ」と壁画科に入りました。また、同時にメキシコで日本画の講座を始めました。硯や墨を大量に取り寄せ、たどたどしいスペイン語で…20代の前半ですね。ですがメキシコの大地震で教えていた大学も潰れてしまって帰国を考えました。しかし1977年に故郷の富山県高岡市がインディアナ州のフォートウェーン市と姉妹都市になりました。そこで「何かできることがありそうだな」と思って連絡し、絵の教室を開くことになったのです。そのあとニューヨークの知り合いから丹羽美代子先生(後のニューヨーク育英学園初代学園長)を紹介されて、一緒に学校を作ることに。二人三脚でうまくいっていたのですが、 1984年に丹羽先生が急にガンで亡くなりました。その翌年に理事会からの要請で学園長に就任しました。先代の意志を受け継ぐ、これも運命かなと思いました。

ー 創立当初について教えてください。

当時、生徒はマンハッタンとニュージャージー合わせて30人くらいで全く黒字にならず。先代学園長がスクールバスは注文したけれど支払うのが大変な状態でした。知り合いのレストラン経営者に頼んで借金をし、それでみんなの給料やレントを支払って…最初はてんやわんやでしたが、そこから40年間で生徒数は少しずつ増え1,000人近くまでになりました。自分もしばらくはバスの運転手も兼ねていましたが、ルートが決まったらアメリカ人の運転手を雇って8台までに増やえました。学園前の荒れ地に、芝の種をまいてスプリンクラーを入れて緑の芝生グラウンドに改造しました。今は立派な運動会を開けるようになりました。その後、保護者の方々が「クイーンズにあった文部科学省の日本人学校が当時5 年生からしかなかったので小学校も作ってほしい」と請願書を持ってこられたことがきっかけで86年に小学部を開設しました。93年にはサタデースクールを開設しました。その当時はニューヨークとニュージャージー合わせて日本人の子どもたちは5,000 人以上いました。今の3倍くらいの生徒数ですね。

白いキャンバスに理想の教育を求め
チームで描く学校作りは壁画制作に近いですね

ー 創立40周年記念行事の内容は。

2021年3月に1年遅れの40 周年記念の祝賀会をリモートで開催しました。山内野勘二大使(在ニューヨーク総領事・大使)に挨拶してもらいました。あとは生物学者の福岡伸一先生による講演やDuoのお二人に箏とチェロの演奏で「和」の調べを楽しませていただきました。ユナイテッド航空のご協力によりチケット抽選会も行うことができました。2代目の私としては祝賀会を無事終えることができてホッとしています。色んな人に支えられてここまできたなと。

学園オリジナル曲「よい子のマンハッタン音頭」に合わせて
盆踊りの練習をしている園児たち

ー ニューヨーク育英学園の最大の強みとは。

看板にしているのはソフトランディング(軟着陸)です。海外から日本に帰った子どもは周りから浮いてしまうことがありますよね。例えば掃除当番をやったことないとか、先生に対する敬語が分からないとか。帰国後に海外にいたことを隠す子も結構いるんですよ。英語で読むのを嫌がったり。それは可哀想ですし、プライドを持ってアメリカに行っていたと言わせたいのです。渡米時と帰国前に一度ここに入って日米にアジャストするための一定期間を設けるんです。水泳で例えると、平泳ぎができるようになってから大海に出てクロールで泳ぐ子と、いきなりプールに突き落とされた子とは精神的に違いますよね。私立の私たちだからこそ、それを旗印にしてもいいのではないかと思います。

ー 英語教育における特徴は。

毎日1時間の英語学習と金曜終日「英語の日」による週10 時間のクロスメソッドを取り入れています。国連で学園の小学生がスピーチをしたことがあるのですが、全日制の日本人学校だと知った大使たちがびっくりするんですよ。全日校でもこれだけ英語でフリートークができるんだと。日本から来る子たちとの会話で日本直輸入の日本語が入ってきます。また、家で英語を話す子たちの英語を聞いて英語力もレベルアップする。クロスメソッドにはそういった効果があります。

ー コロナ禍での運営について教えてください。

パンデミックの前からオンライン授業は取り入れていたんです。2020年のサマースクールは特別なライセンスを取得して2教室ずつだけ各教室の定員10人にしぼり実施しました。私自身も先頭に立って教室に入り、子どもたちと運動場をかけ回りました(笑)。去年の秋学期より午前中に幼児部、午後は小学部と入れ替えで半分の人数に抑えて、オンラインとのハイブリッド授業もどこよりも早く対応しました。幼稚園ですから喜ばせたいですし、小学校だから学ばせないといけない。会議に会議を重ねてどうしたら効率よく運営できるかを工夫して運営しました。スクールバスは全員マスクをしてフェイスシールドをつけ5列ある座席の窓際だけに座るなど、衛生面ではものすごく気を遣って「安全・安心」を第一優先に取り組んでいます。

ー 日米の教育の違いとは。

日本の教育の良さは、全ての生徒に対してレベルアップさせてくれるところ。遅れている子をなんとか上のレベルに上げようとして先生らが必死になるところですね。アメリカだと、勉強が進んだ子、中間の子、遅れてる子、これらのレベルを合わせようとはあまりしないように思えます。遅れてる子には「その調子でやっていきなさい」と言って、進んでる子はどんどん上がってアカデミーに入っていく。その一方で、日本では進んでいる子には「君は算数は進んでいるからもっと国語をやりなさい」と助言するでしょう。我々が見て日米の良いと思うところを集めて取り組めば、子どもたちが良い結果を出してくれるでしょう。あと、アメリカの場合はカウンセラーが必ずいますよね。先生でも保護者でもない中立の立場で子どもの相談に乗ってくれる人です。今後、日本の教育にもカウンセラーはもっと必要かと思っています。

「ここでは専科の先生もいてバラエティーに富んでいます。
自由に発想を伸ばしていける教育を目指しています」と話す岡本園長

ー 今後の教育シーンはどうなっていくと考えますか。

今後どうなっていくか分からない部分があるからこそ、どうなっても対処できる子どもにしておかないといけないですね。一番大事なのは人格形成。時期でいうと幼児部、小学部です。幼児部のときから年齢に合わせてひとつひとつ学ばせること。時代もデジタルに変わり、国の単位ではない世界になっていますよね。私たちも新しいツールを使ってアルゼンチンのブエノスアイレスの学校と合同授業を開いています。ただ、コンピューターで字は認識できても書けないのでは困るわけなので、読み書き算盤的な学問の基礎的なところがより重要になってきますよね。

ー 岡本学園長にとって学校づくりとは。

人の人生に寄り添って自分も次々とアイデアを形にしていくという意味では、学校づくりは壁画制作に近いですね。白いキャンバスに理想の教育を求めチームで描く。私も人が足りなかったら幼児部のアシスタントもするし、スクールバス添乗や運転もします。全てはチームワークなんです。これを読んでくれて、自分もそういう流れに入りたいという人がいたらぜひ応募してほしいです。(笑)

ー やりがいを感じる瞬間は。

ここでは英語がネイティブの先生たちも授業をしているので、子どもたちの耳が慣れてきた段階で現地校へ移る子も多いですが、我々は奨励して送り出しています。そうして現地校に移った子どもたちが活躍している話を聞くとやりがいを感じますね。あとは、最初の卒園生はもう45歳くらいになっているわけですけど、社会で活躍してる子たちが今になってもまだ私がここにいるということで連絡してくるんです。新婚旅行のついでに寄ってみたとか、妻や子どもなどに自分の学んだ場所を見せに来たとか、予告もなく訪ねてきたりして(笑)そういう人たちに校舎内を案内していると非常にハッピーな気持ちになりますね。最近は元園児の教え子たちが新園児の保護者として戻ってきてくれていて、これにも最高の喜びを感じます。

ニューヨーク便利帳®︎vol.30本誌掲載

Interviewer:Megumi Hamura
Photographer:Masaki Hori
2021年 8月11日取材