ニューヨークの琴・三味線奏者 石榑雅代が語る「邦楽器が持つ使命」

みなさん、こんにちは。
編集部の菅原です。

編集部が行く!ニューヨークの習い事 〜琴・三味線〜」企画でお世話になった石榑雅代先生が、コネチカット、ワシントンDC、ニューヨーク、ウエストバージニア、メリーランドと5州にまたがって、ご自身の来米25周年を記念したリサイタルツアーを開催されました。
私も実際にニューヨーク公演に足を運び、古典的な楽曲からジャズセッションまで、大いに楽しませて頂きました。

今回はそんな石榑先生にインタビューをお願いし、ご自身のこと、邦楽への思い、そして今後の活動などについてお話を伺いました。

25年の集大成、そして新たな試み

公演お疲れさまでした。今のお気持ちはいかがですか?

とりあえず、私の中では自分の目的を達成できたという感じです。
今回のリサイタルツアーの一番の目的は、25年の集大成を見せるということ。
そしてもうひとつの目的は、色々な方と共演し、「こんなに楽しい、新しい邦楽もあるんだ」と一般の方に知ってもらうことでした。
そのために、日本で40年以上ご活躍されている、アメリカ人尺八奏者のジョン・海山・ネプチューンさん(以下ジョンさん)やダンスの折原美樹さん(以下折原さん)らをゲストにお呼びして、共演しました。
色々なコラボレーションを組み込み、全体としてお客様には楽しんで頂けたかなと思います。

私もニューヨーク公演を観させて頂いたのですが、ジャズセッションが印象的でした。古典的な琴とはまた違ったイメージで、良い意味で驚かされました。

ジャズセッションは本当は好きなんだけれど、自分には向いていないとずっと避けてきたんです。
でも今回のリサイタルを前に「ここらで一発やりたかったことに挑戦してみるか!」と考えたら、ジャズセッションが出てきたんです。
それで、もともと知り合いだったジョンさんに共演をお願いしました。
尺八奏者としてとても有名な方ですが、尺八を使って色んな音楽にもチャレンジしている、ある種異端児的な存在。ジャズもやっていたようでセッション経験も豊富です。
ここはそんなジョンさんの胸を借りたら少しは気楽にできるかなと。
結果として、成功だったと思います。

ジャズのテイストで味わう琴の新しい魅力

ジョンさんは演奏も素晴らしかったですが、トークもお上手でしたね!

そうそう、いつも冗談ばかり言っている陽気な人なんです。
途中、舞台に出て琴の前に座ってみたら調弦(チューニング)が間違っているというハプニングがありました。調弦しなおすには時間がががると思ったので、ジョンさんに「話して!」とお願いし、トークで急場をしのいで頂きました。もうジョンさん大活躍(笑)
でも、琴や三味線は、ピアノのようにこの鍵盤を押せば「ド」の音が出る、という楽器ではないので、調弦よってはたとえ同じ糸を弾いても「ド」にもなるし「ラ」にもなる。
そんな邦楽器の難しさを知ってもらえた、良いハプニングだったかもしれません。

即興演奏のメロディーやアイディアはどこから出てくるのですか?

どこからも出てきません(笑)今回は彼の曲のなかで順番にソロパートを回していったので、比較的やり易かったと思います。
ジャズセッションのルールやコードを勉強してきた人であれば自然と入っていけるのかもしれませんが、私はそういう世界でやってきていないので、話にすら全然ついていけない。
琴にはコードもないし、他の楽器とは違って音階もドレミファソラシドとは違います。
なので「ドを出して」と言われたら、まずどの音が「ド」なのかを探しあてていかなけばなりません。そのうえ調弦によってまた異なってきます。
だから邦楽器と洋楽器のセッションは難しいし、その分成功例も少ないんですよね。
今回は曲に合わせてジョンさんが事前に音階を指定してくれたので、その音を使って即興で演奏しました。

折原さんのダンスとの共演は、琴の音色にのったしなやかな動きが美しく幻想的な雰囲気でした。

以前コンサートを観てくださった方に「動きがなくてつまらない」と言われたことがありました。
確かに、洋楽器などと比べると琴の演奏はどうしても小さく見えてしまいがちです。
そこで、演奏する私達ではなく、別の人に動いてもらえばいいんじゃないかというアイディアから、ニューヨークで長くご活躍されている折原さんに共演を依頼しました。
こうしたダンスとのコラボにも、新しい試みとして積極的に挑戦していきたいです。

その世界観で観客を魅了した「海へ/欅(けやき)」

生徒さんたちとのアンサンブル曲も、いくつもの音色が重なり合って素晴らしかったです。

ありがとうございます。「アンサンブルでひとつになる」という目標を持ってやっているので、日本と比べてもアメリカ国内でみても、グループとしては認められるレベルにあると思います。
個々で弾かせてみたら、やはりプロではないので上手とは言えない部分もありますが(笑)
また私の生徒はみな、人前で演奏することへの慣れというか、度胸があります。
この慣れというのが重要で、練習でどれだけ上手に弾けていても舞台の上ではやはり違ってくるし、たとえミスをしても焦らずにしれっとした顔で弾き続けなければならない。
そうした慣れが身についているのは、やはり多くの場数を踏んできたお陰だと思います。
これまで私は、「生徒たちと一緒に何かをする」、「人前で演奏する機会をとにかく増やす」ということにできる限りの努力をしてきました。
そういう機会があると、練習にも張り合いが出るし、上達も早い。そして何より、みんなが楽しんでくれています。
生徒たちが長いこと辞めずに続けてくれている理由のひとつだと思います。

4丁の三味線で奏でる「群(ぐん)」

重なり合う琴の音色と尺八の共演「キャニオンビュー/月の精霊」

「お琴といえば石榑さん」から「石榑さんてどなたですか?」に

石榑先生ご自身のことについて教えて下さい。

琴を始めたのは5歳で、たまたま家に琴があったからというのがきっかけです。
お稽古を続けていくなかで、わりと早いうちからプロの演奏家になろうと決めていました。
そして芸術大学の邦楽科を卒業した後、沢井流の創始者である沢井忠夫・一恵先生に弟子入りし、内弟子として東京のご自宅に住み込みで修行しました。
そんな折、一恵先生から海外に琴を広めてこないかとお話を頂いたのが1992年のことで、コネチカット州にあるウェスリアン大学へ琴・三味線講師として派遣されました。
1996年にニューヨークへ拠点を移し、大学での指導や自宅で教室を開きながら、音楽家としての活動を続けています。

これまでの25年間の活動を振り返ってみて、どのように思われますか?

25年の間には、という辛い時期もありました。
私は30歳後半で結婚して40歳で出産したんですが、出産後さあ復帰しようと思ったら、予想以上に体力の消耗が激しくて、くわえて周囲の環境も変わっていました。
独身時代はとにかくやれることはすべてやったし、それなりに弾ける技術も自信もあった。2005年には映画「SAYURI」に琴奏者として携わり、著名な音楽家の方々との共演も経験しました。
はっきり言って、調子に乗っていたんです(笑)
出産、子育てと、私自身の音楽活動がスローになっていく一方、若い琴奏者たちがどんどん進出して新しいことを始めている。
それまではライバルがひとりもいないような独占状態だったのに、いつの間にか「お琴といえば石榑さん」から「石榑さんてどなたですか?」になって、すっかり置いて行かれたおばさん状態になっていました。
どうやったらライバルにも勝てて、人にも認められて、そして自分も楽しめて…焦りはあるのに何をしたらいいのかわからない。
幸い生徒はたくさんいて指導は続けていましたが、目標もなくだらだらと教えるだけという日々で、そこからの何年間かは本当に辛かったですね。
ただ、何くそとどん底から這い上がり、今回の25周年リサイタルも頑張れたのは、今思えばそういう時期があったからこそだと思います。

母親になったことで生まれた音楽への変化

結婚、出産、子育て…。女性として音楽家を続けていくことに難しさはありましたか?

やはり家庭との両立は大変です。
でもひとりで続けていたら、きっと精神的にも非常に苦しかったと思うし、成立しなかったんじゃないかと思います。
今回のリサイタルツアーも、表に立つのは私ですが、会場やカメラマンの手配、プログラムやチラシの作成など、裏方の仕事は全て夫がやってくれました。今回のツアーが終わって一番疲れていたのは私よりも彼だと思います。
私の師匠である一恵先生も3人のお子さんを持つ母親ですが、3人がいたからこそ頑張れた、そして、子どもを持つと音楽が変わると仰っていました。

子どもを持つと音楽が変わる、というのは?

長く私の演奏を聴いて下さっている方からも、子どもを産んでから演奏が変わったと言われたことがあります。
子どもを持つと、体力も時間も奪われるし、音楽の優先順位も下がってしまう。
でも、自分の内側から生まれる何かが、自分の音楽を変えていることを実感しています。
今回の演目に取り入れた「甦る五つの唄」もそんな思いがあって選曲しました。

その「甦る五つの唄」への思いについて、聞かせていただけますか?

この曲は沢井忠夫先生が作曲したものですが、先生のご長男が13歳のときに書いた詩が元になっておりますが、その歌詞にこんな一節があります。

「貴方がそこにいます 
 僕はみつめます
 そして貴方は
 ———————
 ソッポを向きます」

独身時代はこの詩を見ても何も感じず、「ありきたりな歌詞じゃん」とまで思っていました。でもいま自分が母親になり、改めてこの詩を読むと、込み上げあるものがあります。
当時の一恵先生は本当に忙しくて、子育てどころではなく、家にはいつも他人の内弟子が子どもたちの面倒をみているけれど、母親である先生がいない。子どもたちにとっては、自分の家なのに居場所がないような、すごく寂しい思いをしていたのだろうと思います。
私の今回のリサイタルツアーも、その準備期間がちょうど息子の春休みと重なっていて、練習に準備にと忙しく、家事もそこそこで、毎日家にいる息子にかまってあげられませんでした。
それでも「演奏会が終わるまでは我慢してね」と言うと、黙って静かにひとりで遊んでいました。
そんな息子の姿がこの歌詞と重なって、私のなかで感じるものがあり、この曲への思いが変わりました。
子どもには本当にかわいそうな思いをさせているけれど、だからこそ、自分のしていることを自信を持って子どもに伝えられる母親でありたいと思っています。
こうして私が頑張っている姿をみて、いつかわかってくれる日が来ると良いんですけどね。

これまでとは違う思いで演奏したという「甦る五つの唄」

邦楽器がもつ使命を受け継いでいく

今後の活動について聞かせてください。

日本では邦楽人口が少なくなっていく中で高齢化も進んでいるし、せっかくやってくれる人を絶やさないようにしなければいけないと思っています。
着物着て正座して美しく…のイメージにとどまらず、ストリートで演奏だってするし、新しいものもどんどん取り入れて行きたい。
学校で子どもに琴を教えたり、ちょっと演奏しにいったり、そうした小さな活動のなかで私達を知ってくれた人が、今回チケットを買って演奏を聴きに来てくれました。
邦楽に興味を持つ人はきっといる、けれどそれを掘り出せていない。そんな邦楽の現状を変えるには、メディアの力も借りてもっと発信していかなくてはと思っています。

アメリカで邦楽を広める活動のなかで、いわゆる逆輸入的に、日本の邦楽も盛り上がりそうですね。

そう、それが理想です。日本でもアメリカでも、楽器も流派も関係なく邦楽全体が盛り上がれば良いと思っています。
邦楽器として琴が持つ使命というものがあるんだとも改めて感じました。
今回のリサイタルで演奏した「春の海」は琴と尺八の代表的な古典曲なので、日本人ならどこかで一度は聴いたことがある曲です。
リサイタルでの限られた曲数に入れるかどうかは正直迷いましたが、いざ弾いてみると、意外にも「春の海を生で初めて聴けて良かったです」と言ってくださる方もいました。
そのことがあって、一般の人がイメージする「邦楽の古典的な琴」というものも残していかなければならないのだと気付かされました。

尺八と琴の美しい音色が調和する古典曲「春の海」

新たな野望 「プロジェクトX」

今後チャレンジしてみたいことはありますか?

最近考えている私の夢は「X JapanのYoshikiさんに曲を作ってもらうこと」です。
みんなには笑われるんですけどね(笑)
音楽家としての自分だけではなく、琴のために、邦楽のために、もっと世間から注目されて、話題性のあるものにチャレンジしなくてはと思っています。
彼が邦楽の曲を作ったらどんな曲ができるんだろうと興味もありますし、どれほど邦楽界が盛り上がるだろうかと、真剣に考えています。
実は、私の流派(沢井箏曲院)の会長、沢井比河流がヘビーメタルをやっていて、そのご縁で昔はYoshikiさんと親交があったらしいんです。
そんな背景もあって、絶対ありえないとは思いつつどこかでうまいこと繋がらないかと、色々なところで言いふらしているところです。
今後10年間願い続けようと思っている、私の新たな野望ですね。

Profile
琴・三味線奏者 石榑雅代
岐阜県出身。高崎芸術大学音楽科邦楽部卒業後、沢井箏曲院の創設者、沢井忠夫・一恵に師事。1992年、コネチカット州ウエストリアン大学に講師として赴任。1996年、ニューヨークに拠点を移す。2005年には映画音楽の巨匠、ジョン・ウィリアム氏に見出され映画「SAYURI -Memoirs of A Geisha-」に琴奏者として出演。現在は、コロンビア大学での音楽指導や自身のグループ “Miyabi Koto Shamisen Ensemble”など精力的に活動している。