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山九100年の現場力でアメリカ事業の拡大を目指す
物流・プラント機工の山九は、日系製造業が多く進出する中西部シカゴにアメリカ現地法人を置く。 現地法人社長を 2019 年 4 月から務める森川智彦氏に、事業内容や抱負、自身のエピソードなどを聞いた。
ー御社の沿革を教えてください。
弊社の起源は、1918 年に設立された山九運輸株 式会社にさかのぼります。故中村精七郎が創業した中村汽船 が磯部組を買収した際、事業基盤であった山陽と九州の 2 つ の頭文字に、ありがとうを意味する英語「Thank you(サン キュー)」を掛け合わせ、この社名となりました。この言葉を掛 けたのは、彼が大正初期のロンドンで、ある紳士に道を尋ね て親切に教えてくれたお礼を述べた際、その紳士も「Thank you」と返してくれ、感謝の言葉が人をつないだその体験に 感銘を受けたことが由来となっています。社長は創業家の中村 家が代々務めており、現社長の公大氏は 6 代目です。40 代で 若く、気さくな人で、過去には私の下で 1 年間働いてくれたこ ともあります。
ー事業内容について教えてください。
事業の柱は物流(ロジスティクス)、機工(プラントエンジニア リング)、構内操業支援(オペレーションサポート)の 3 つです。 幅広い物流サービスをはじめ、顧客企業のプラント建設やそれ に伴う重量物輸送、据え付け、試運転、さらには操業、資材調達、販売物流、保全といったところまで密に支援できることが、弊 社がユニークなところです。顧客企業には製造業が多く、顧客 が海外に工場を建てるとなれば、弊社が現地でサポートします。
ーアメリカ現地法人の概要を教えてください。
アメリカ現地法人は、日系自動車関連企業の多くが中西部 に進出している理由から、シカゴに本社を置いています。当初 1984 年にサンフランシスコで立ち上げ、88 年に本社機能をシカ ゴに移転集約しました。重量物の取り扱い量では現在、アメリ カの専門誌が発表する 30 社ランキングに日系企業で唯一入っ ています。顧客は日系企業からの引き合いが多く、初めの大 型案件としては 91 年から 93 年、クライスラーと三菱自動車工 業によるジョイントベンチャー工場への設備輸送や据え付けでし た。最近では、パナソニックのテスラ車向けリチウムイオン電池工場「ギガファクトリー」(ネバダ州リノ)についてもサポートし ています。重量物や特殊な荷物については自社で輸送しますが、 そうでない普通の荷物は、アメリカのロジスティクス企業 CH ロ ビンソンと業務提携して運んでいます。またアメリカ法人は人材 育成の場としても位置付けられています。弊社は毎年 1 人の社 員に、3 ヵ月の語学研修と 1 年間の OJT としてアメリカ派遣の 機会を与えています。最近は女性社員の活躍が目覚ましく、ア メリカで次に受け入れる社員も女性の予定です。
ー人材育成の取り組みを教えてください。
弊社はグローバル人材を育てることに力を入れており、語学 研修と OJT はアメリカだけでなく、東南アジアや中東の現地法 人などでも同様に取りんでいます。また、技術育成にも注力し ています。溶接技術を競う全社大会を毎年日本で開いており、 これには全世界の社員が参加します。専門分野で高い技術を 持つ社員に「マイスター」の称号を贈る取り組みもあります。現 場を支える人と技術こそが弊社の財産。先輩たちが 100 年か けて築き上げてきたものだと思います。
ー経歴を入社前にさかのぼって教えてください。
山九入社前は、商船学校を出て航海士として働いていました。 航海士になったのは、父親のふるさとが鹿児島で海が近く、海 が好きだったことと、船への憧れの気持ちからです。ただ当時は 海運業界が不況のさなかにありました。海外の安い海運会社に 太刀打ちできなくなっていたのです。私は卒業後、船会社には 所属していましたが、その会社の船に乗ったことはありません。 船を斡旋してくれる組合に所属し、そこからの紹介で乗船してい ました。山九に入社したのは 1989 年、船を降りた後のことです。 神戸支店の倉庫に配属され、管理だけではなく、一作業員とし て積み荷作業などをしていました。その後は乙仲(通関などに 携わる業務)、インドネシア現地法人、神戸支店に戻った後に大 阪で営業、直近はマレーシア現地法人で働いていました。
ー以前の海外赴任や営業時代のエピソードを教えてください。
神戸時代に関わりのあった顧客企業が海外進出するとのことで、インドネシアへ初の海外赴任が決まりました。顧客企業から 「森川が一緒に来てくれるなら仕事を任せます」と声を掛けて もらい、それで抜てきされました。現地では 2 年間、言葉も分 からないうえに工場を立ち上げた経験もないので、泣きそうな 思いで働きました。当時の経験があるからこそ、今があると思 います。大阪での営業時代は、主にパナソニックを担当していま した。プラズマテレビ工場などの立ち上げ支援などで、中国や東南アジアに出向くことが多かったです。私自身は営業でしたが、 現場でのプロジェクトマネジャーも務めていました。パナソニック の方々とはずっと一緒に仕事をさせていただいたので、達成感や、時には大変な思いも共有させていただきました。
ーアメリカ赴任は希望していたのですか。
希望はしていませんでした。前任地のマレーシアにはペトロ ナス(Petronas)をはじめ石油化学企業が多く、そこで頑張 りたいと思っていましたから。マレーシアではペナン支店長を 1 年務めた後にクアラルンプールの現地法人本社に異動し、そこ では 3 年。異動の命を受けたときは驚きでした。マレーシアで はやり残したことも多く、もう少し駐在したかったですが、(日本 本社の)会長と社長が期待して起用してくれたものだと思いま す。今はプレッシャーも感じています。
ーアメリカではどのようなことを感じていますか。
輸送ビジネスが進んでいますし、重量物輸送のノウハウも豊富 です。弊社の競争相手は日系企業よりも現地企業なので、一層 頑張らないと他社との差別化は難しいと考えています。
ー社長としての抱負を教えてください。
弊社は現在、日系自動車企業へのアクセスの観点から中西 部のシカゴを拠点としていますが、ゆくゆくは南部にも支店を 設けたいと考えています。というのは、テキサス州やルイジアナ 州には石油化学メーカーや鉄鋼メーカーが多く立地しているか らです。弊社は歴史的に、これらの企業との取引では先駆者で ありますが、ここアメリカではその強みを生かしきれておりませ ん。もちろん 1 年で拠点を立ち上げられるとは思っていませんが、 形にして後輩たちに引き継ぎたい。このことが、社長が私に期 待してくれていることだと思いますし、私自身も最後の奉公だと 思って頑張るつもりです。また、ロジスティクスの部分にも力を 入れたいです。国際物流でコンスタントに収入が生まれる状況 をつくり、さらなる経営の安定につなげたいです。
ーアメリカで成功する秘訣を教えてください。
秘訣と呼べるようなものはなく、むしろ教えてほしいくらいです が、私自身としては謙虚な気持ちでいることを大切にしています。 海外勤務は、その先々で仕事をさせてもらっているようなもので す。その土地や人に対して感謝の気持ちを忘れず、つながりを 大切にして仕事をすれば、必ずうまくいくと思います。
笑顔でポーズをとる山九 USA の従業員一同
Interviewer: Mika Nomoto
Photographer: Amy Bissonette
Editor: Shot Haga
2019 年 11 月19日取材
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