忘れもしない10年前の3.11 僕は日本で大地震を経験したんです

ニューヨーク在住の僕がたまたま10年前の3月5日から10日間、日本出張の為、東銀座の東京オフィスにいた時に東日本大震災の予兆が起きました
震災の前日(10日)の午前中に東京にも震度3の地震があって、自分的にはとても怖い体験をしたことを覚えています。机に座っていたら急にグラっと来たので身構えていたら、スタッフの一人が”この程度なら大した地震じゃ無いですよ”なんて言うので、そんなもんかな〜。。。と僕自身は久しぶりの地震に相当ビビっていましたよ〜
基本的にニューヨークには地震はありません。大きな山脈や火山が無いので地震が起こり難い地形らしいです。以下は2011年8月にニューヨークで起きたちょっとした地震のニュースです。東日本大震災の後の地震ですから何かしらの影響を実は受けているのかも知れません。

当時、僕は地下にあるレストランで食事をしていて、その地震には気付きませんでした。ですのでニューヨークのマンハッタンはその程度の揺れでした。

ちょっとこのニュース、大袈裟に書きすぎているように思います。
話を戻しますね。。。
久しぶりに体験した震度3の地震の翌日の3月11日、今日はスタッフと埼玉県の学校周りをする予定で朝から車で数校周り、14時のアポが最後の訪問先で、その時に起こった大地震が100年に1度の東日本大震災でした。マグニチュード9.0という過去に例の無い大きさです。大宮駅前に本部がある某学校法人の校長室で4人でミーティングをしていた時でした。校長室の書棚がガタガタ揺れ始め、廊下に飾ってあった花瓶がパリーンと甲高い音で割れた瞬間、皆がこれは”やばい”と思ったのでしょう。誰ともなく”早く外へ出ましょう”との掛け声に教職員が一斉に立ち上がり、廊下に出た瞬間でした。。。地面からゴ〜という地響きと経験したことにない大きな横揺れに女子生徒の悲鳴と歩くことすら出来ない状況が1分ほど続いていたように思いますが、恐怖でよく覚えていません(笑)。
”死ぬというのはこういうことか。。。”と走馬灯のように家族の顔や過去の景色が本当に出てきたんです。横揺れでしたから建物がグチャッと潰れる映像が頭をよぎり、瞬間的に自分で死ぬ覚悟を決めた、のかも知れません。それぐらいの大地震だったんです。
校内はスリッパですから滑り足で階段の手すりに捕まりながら、剥がれ落ちた壁のタイルやガラスを避けながら、やっとの思いで外に避難できた時は本当に嬉しかった。生きてて良かった〜と真面目に思いましたね。外は晴天、校舎の壁のあちらこちらにヒビが入っていましたが怪我人がいないことが本当にラッキーでした。皆で安否を確認した後、余震があると危ないので早々に帰宅しましょう、ということになり我々も車に乗って学校を後にしたのは確か15時40分頃だったと記憶しています。急いで東銀座のオフィスに向かおうと大宮バイパスに出る手前で大渋滞。。。大宮付近から東銀座のオフィスに到着したのは、あれから8時間後の深夜0時です。首都高も閉鎖、帰宅困難者で溢れていた都内はコンビニには既に商品は無く、レストランも空いていません。結局、自宅に戻れたのは、
更にそこから5時間後の3月12日の朝方でした。興奮冷めやらぬその後のテレビであの恐ろしい津波の地獄絵巻、福島原発の爆発映像を観たのです。
もう日本中がパニックでした。その後の福島原発は風評被害となって多くの被災者に追い討ちをかけたように思います。
あれから10年。
自宅を流された人、愛する家族を失った人、事業を無くした人、地元を離れた人、その前日は何事もなく、普通に過ごしていた人達です。
あまりに残酷な現実に言葉もありません。復興はまだまだこれからです。日本人の弱さは、負の連鎖です。自己肯定感の欠如が引き起こす心の問題だと思います。
どん底から這い上がるサクセスストーリーは日本人は皆大好きです。だからどん底を見た被災者の方々には必ずや自己のサクセスストーリーを築いていただきたい、日本人のど根性を見せつけて欲しいと願っています。
影ながら被災されても負けずに頑張っている全ての皆様に心からのエールを送ります。
そして、亡くなられた多くの犠牲者の方々には心から哀悼の意を表します。

【執筆】

Y’s Publishing Co., Inc.
代表
吉田仁